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ヘヴンズブルー2:第10話

  
 成沢邸。
 案内役の女性が開けた重厚な扉の向こうは、大きな窓に三方を囲まれた明るい室内だった。初老の男女ふたりが十人掛けほどの長いテーブルの端の席に腰かけている。

 一番端、和室ならば上座の位置にいる和装の男性は、年を経た者特有の温和な眼差しを和臣に連れられたナオへと向けた。その綺麗に整えられた銀髪や、皺やしみがあるものの昔は端正だったろうと思われる顔かたちにナオは目を引かれる。─── その容姿は、どことなく和臣に似ていた。
 
 茶器が用意されたワゴンを挟んで、彼の右隣に座っているやはり和服の年配女性もナオと和臣に目を向けたが、その視線からはなんの感情も読み取ることが出来ない。

 この豪奢な屋敷の主であり和臣の実父でもある成沢 繁之と彼の夫人 ─── 正妻であることは疑いようもなかった。
 
 案内をした女性が退出し、ナオの背後でゆっくりとドアが閉まる。それも気付かないまま、ナオは足の震えを抑えるので精一杯だった。出来ることなら、今すぐここから逃げ出したい。心底そう思いながら、自分の腕を掴んだまま前に立つ和臣の声を聞いた。

「……これは珍しい。お二人お揃いとは」
 驚いているようなその声に、老境の夫妻の仲睦まじいお茶の時間というわけでもないのか、とナオは和臣の背中を見上げる。

「和臣さんこそ、お珍しいじゃありませんか。なんの前触れもなくいらっしゃるなんて、……その方は、どなた?」
 優雅にティーカップをソーサーに戻しながら、夫人はナオに自然な笑顔を向ける。和臣はそれへ答えずに、父を見据えた。
「ちょうどいい。黒川を呼んで下さい。話があります」
 
 黒川の名を聞いてナオの身体が竦む。─── こんなところを見られたら、また何を言われるか判らない。
 声も出せず、和臣の手を離そうと腕を引いた。和臣はもがくナオをものともせず、携帯電話で黒川を呼びだす父を平然と眺めている。

 間を置かず、黒川が現れた。部屋に入ってくると、一瞬、和臣に腕を掴まれたナオに目を留めたが表情を変えず傍らを抜け、秘書らしく当主の隣に立った。
「お呼びでしょうか」

「呼んだのは俺だ」
「……何のご用でしょう」
 鋭く言った和臣と黒川が向かい合う。ナオは室温が急に二、三度は下がったような張り詰めた空気になるのを感じた。

「……ぜひとも、お前にも知っていて欲しくてな」
 和臣はナオの腕を乱暴に引いて、隣に立たせた。
「親父殿、このひとは鈴原 七生。……俺と生涯を共にする方です」

 すうっと自分の顔から血の気が引いていくのがナオには判った。三対の目に射られ、息が出来ない。
 夫人へと向けた和臣の声が続く。
「今後一切、見合い話はお断りします」
「……承知致しました」

 品良く目を眇めた夫人は姿に似合わぬ低い声で承諾した。何事もなかったように、ティーカップを取り上げ、口を付ける。
 真っ青になったナオはじっと自分を見つめる黒川に、首を横に振って見せた。─── ナオにも予想外のことだった。

 こんなはずじゃなかった、と必死に目で訴えるナオを、黒川は表情も変えず黙殺する。ナオは狼狽え、隣に立つ和臣をすがるように見上げたが、和臣が黒川を睨みつけているの知ると、夫人、当主の順に目を移し、─── ついに俯いた。

 混乱のあまり、どうしたらいいか判らない。今、一体、何が起こっているのか。
『俺と生涯を共にする方です』
 あれは、どういうことなのか。もし言葉通りの意味なら。

 青ざめていたナオの顔に血の色が戻ってくる。普段の顔色を通り越し、赤く染まった。
「……鈴原、七生さん、と言ったね」
 ずっと沈黙を守っていた当主が、口を開いた。親しみのあるゆっくりとした口調に、ナオは赤らんだ顔を上げる。

「……はい、……」
 何を言われるのだろう、とナオは心の中で身構えた。ひどく罵られることは目に見えている。
 由緒正しい身分を保証されたこの屋敷の中で、自分だけが異分子だと知っていた。

 怯えて次の言葉を待つナオに、当主は軽く手を上げて揃えた指先を曲げる仕草をする。和服の袂が揺れ、手招きをしているのだ、と気付いたナオは和臣を見上げた。
 和臣は無言で掴んでいたナオの腕を離した。

 そっと音を立てないように気を付けて、当主に近付いていく。彼の近くにいる黒川の視線は怖かったが、呼ばれているのだから仕方がない。

 突然の出来事に、萎縮していたナオは和臣の父をおずおずと見つめる。豊かな白髪に温和な表情。深い皺は刻まれているものの、端正な顔立ちはやはり和臣に似ていた。
 
 テーブルのすぐそばで立ち止まったナオに当主は右手を差し出した。握手を求められているらしい。躊躇いながらも同じように差し出したナオの右手が、主の両の手の平に包み込まれた。

「……ずいぶんと可愛らしい」
「は、……」
「今度、一緒に食事でもいかがかな?」
「あの……」

 肉厚で温かく乾いた手がナオの華奢な右手を撫でる。
 面食らい、返答に窮するナオの肩を掴んで主から引き離したのは、ずかずかと近付いて来た和臣だった。ナオの前に立ち塞がり、当主の柔和な視線を遮る。
 
「親父殿。ナオは俺以外とは二人きりで会わない」
「そうか。お前の大事な方だから、ぜひ食事にお誘いしたかったんだが」
「残念ですが」 
 丁寧な口調の裏にどうしようもなく不遜な響きがある。和臣は椅子に掛けている父親を、その真意を探るようにたっぷりと時間をかけて見下ろした後、隣の夫人に目を移した。

「……もし彼に接触する必要があるなら、俺を通して頂きたい。過日のような勝手な振る舞いは謹んで頂けるよう、くれぐれもお願いします」
 なんの心当たりもないような素知らぬ顔で、夫人は傍らのワゴンからティーサーバーを取り上げる。

「……和臣さんもいかが?」
「けっこうです。すぐに辞しますので。……黒川、車を出してくれ」
 一礼した黒川は部屋を出ていく。和臣は黒川の背中がドアの外に消えるまで鋭く睨めつけていたが、困惑したナオの表情に気付いて、当主と夫人に向き直った。 

「それでは失礼します」
 軽く頭を下げた和臣の隣で、慌てたナオが深々と頭を下げる。その細い肩を何のてらいもなく抱いた和臣は、訪れた時と変わらぬ強引さでナオを屋敷から連れ出した。

 
 

 

 
 
 黒川が運転するメルセデスベンツ・Sクラスの車内。滑らかに走り出した車の中で、ナオはまたもや和臣と離れて座っていた。行きのタクシーよりも更に小さく、なるべく目立たないようにひっそりと広い革張りのシートに腰かけている。

「─── 誰がいつ見合いしたって?」
 口火を切ったのは運転席の真後ろの和臣だった。ナオは身体を強張らせ、ゆったりと足を組んでシートに深く背を凭れさせている隣の横顔を見る。
 その険しい目はバックミラーに向けられていた。

「結納だと? よくもそんな大ボラが吹けたな。奥様の入れ知恵か?」
「……私の一存です。奥様は関係ございません」
「そうか。どんな手段を使ってでもナオを遠ざけろってご命令か」
「……」

 黒川の無言は肯定を匂わせる。和臣はにやりと剣呑に笑った。
「……ナオをさんざん泣かせてくれたのもお前の一存か?」
「成沢さん僕泣いてないからっ」
「ウソつけ」

 焦って否定するナオの言葉を和臣は一蹴する。眇めた横目をナオに向けて、ぴしゃりと言った。
「嘘を吐くな。泣いたんだろう。お前は黙ってろ」
 なんか僕、さっきからずっと発言権ないんだけど、と口の中でもぐもぐと言いつつ、ナオは俯いて口を閉じる。 

 駆動音がほとんどしない静かな車内に黒川のこもった声が響いた。 
「……私はただ注意しただけです」
 運転席のバックミラーから自分は見えない。そう判っていたが、ナオは黒川が自分へと意識を向けるのをまざまざと感じた。
 
「……その方が、和臣様を待ち伏せて」
 黒川の暗い声に非難の言葉を予想して、ナオは汗で湿った手の平を膝の上で握りこんだ。伏せた目に、じわりと涙が滲む。

「毎日のように。ただ顔を見るだけ、などと言って」
「こいつを泣かせていいのは俺だけだ」
 黒川の声をかき消したのは和臣の傲岸不遜な発言だった。バックミラーを睨めつけながら、和臣は鋭く命令する。

「二度と泣かすな。殺すぞ」
「……申し訳ありませんでした」
 素直に謝罪する黒川の声は、どこかほっとしてるように聞こえた。
  
 
 
 
 

 
 
「……注意することがひとつある」
「え……?」
 
 黒川にいつも利用するホテルへ送らせた後、その一室で和臣は苦虫を噛み潰したような顔をナオに向けていた。
 ルームサービスの料理が並ぶテーブルの椅子を乱暴に引いて腰かける。そのテーブルの上に置いてあった煙草の箱を手に取り、一本を口に咥えた。

「親父から連絡があっても、のこのこ出ていくな。親子どんぶりは死んでもごめんだ」
「まさか。……あんな立派で偉い人が、そんなこと、……僕に興味なんて」
「あっただろうが。いつまでものんきに手ェ触らせてんじゃねえ」
 
「……僕が、成沢さんに連れられてきたから、気になっただけだよ」
 その上、あんな、と言いかけてナオは口ごもる。俯いた顔が赤く染まる。

 そんなナオの顔を眺めながら、和臣は煙を吐き出した。
「自分の奥方の目の前で倅の伴侶にちょっかいかけるなんざ朝メシ前だぞ。モラルだの倫理だの期待するな。そんなもんがあの人にまともにありゃ俺は生まれてねえ」

「はん……」
「ヨメのほうが良かったか?」
 ますます顔を赤くして、ナオは頭を横に振った。
「じゃ、妻。……パートナーか?」

「そう……そうじゃなくて、……僕、そんなの、なるって言ってない」
「俺が決めた」
「いつ? どこで? なんでそうなったの!?」

「お前が俺にストーカー行為を働いていたと知った時から」
 さらりとその言葉を口にした和臣の前で、ナオは立ち竦んだ。
 
 背中が汗に湿っていく。無意味に口をぱくぱくさせる。そんなナオの赤かった顔色は青くなり、また徐々に赤くなっていった。
「す……す……ストーカーじゃない……って、……言って……僕……」

「こっそり俺を眺めてたんだろう。待ち伏せして。通るかどうかも判らないのに。俺と話すことも出来ないのに」
「……だ……だって……気になって……ちょっと見るだけ、って……」
「─── それだけで充分だ」

 和臣はグラスを手に取り、ナオの為に注いであったワインを飲み干した。
「お前が俺を気にした。俺がどうしてるか気になった。どうしても俺の顔が見たかった。─── だから生涯、俺のそばに置いておくと決めた」

 断固とした和臣の口調に気圧される。狼狽えながらも、ナオは口を開いた。
「な……成沢さんは、ちゃんと、結婚しないと……結婚したほうが、いいと思う……家のこととか、あるし……」
「さっきお前と生涯を共にすると宣言してきただろう。聞いてなかったのか?」

「き……聞いてたよ……だから、やっぱり僕とはなんでもないって……今から……明日とかでも、行って……ちゃんとお見合いして、結婚……」
「無理だ」

 煙草の先をクリスタルガラスの灰皿に押し付けて、きっぱりと和臣は言い放った。
「お前がいい。もうごちゃごちゃと思い悩むのは止めだ。飽きた。お前がいやでも、無理やりにでもそばに置いておく。決まったことだ。諦めろ」

「き、決まったことって、臣さんが勝手に決めたんじゃんか!」
 余りと言えば余りな和臣の頭ごなしな物言いに、ナオの言葉遣いも以前のものになってしまう。
「僕、ずっと一緒にいるって言ってないし! 言われてないし! 生涯、とかって、伴侶とかって、なに!? 強引に、いきなりあんなお屋敷連れてかれて、諦めろってそんなのわけ判んないよ!」

「すごく判りやすいと思うが。……黒川におかしなこと吹き込まれて出て行ったお前が、少しでも俺に執着してくれた。それで充分だろうが」
「しゅ……」

 執着、とナオは呟いてみるみる頬を染めた。俯いて唇を噛む。執拗に和臣のことを想っていると、当の本人に暴かれ、糾弾されたような気がした。
 なんとか逃げ道を探そうと、和臣の言い方に引っかかっていたことを口にする。
 
「お……っおかしなことなんかじゃないよ、黒川さんはそれが仕事で、臣さんの、実家のこと考えたらそれが普通で、……結婚とか、普通で。黒川さんは仕事しただけ」

「……ずいぶん黒川を庇う。さっき何話してた?」
「さっ……き、って……」
「俺がチェックインの交渉してる間だ」

 和臣は乱暴にワインボトルを掴み、空になったグラスに自棄のように中身を注いだ。

 

        

       目次第11話
  

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